「飛瀧恋夜」(弁望)
夏の熊野舞台のシリアス風味微甘中編。
怪異を調べに勝浦から熊野川上流へ向かう一行が途中で立ち寄った那智山。
望美は弁慶と二人で那智の滝へと涼みに行くが……
龍神温泉での気になる人=弁慶が前提のお話です。
中盤、ちょっとだけ弁慶さん強引かも…
【sample】
「……暑い……」
望美は恨めしそうに外の陽射しを見遣った。
此処に着いたのが昼頃。
上手く確保出来た宿で、このまま一泊する事になったのをいいことに、望美は早々に部屋へと引き籠って、ひんやりとした床板に猫の様に寝転がっていた。
羽織も靴下も脱ぎ散らかして、寛げた衿から舞扇で風を送り込む。
申し訳程度に吹き込んでくる風が、流石にこの醜態を仲間達には見せられない…とばかりに下ろした御簾を僅かに揺らしていた。
朔がこの場に居たのならば、確実に、お説教をくらいそうな有様ではあるが……幸か不幸か……彼女は、兄の景時と共に何処かへ出掛けてしまったらしい。
「クーラーが欲しいぃ~~」
適当に纏めた長い髪が顔へ掛かるのを、面倒臭そうに掻き上げながら呻いてはみるものの、それが無理な相談だというのは、望美自身が一番よく分かっていた。
此処は…自分が暮らしていた世界とは、遠くかけ離れた異世界なのだから……
熊野の地に入って、既に幾日かが過ぎていた。
田辺から直接本宮へ向かう、いわゆる中辺路が通れないことが分かって、遠回りになるのを覚悟で抜けて来た…後世で言う大辺路。
漸く辿り着いた勝浦で聞いたのは、熊野川の上流で起こっているという怪異の話だった。
幾度か時空跳躍を繰り返している望美にとっては、もう何度目か分からない熊野ではあったが…どうあっても、此処で怨霊に阻まれる運命は変わらないようだった。
胸の内で怨霊に恨み言を唱えてみるものの…それで何かが変わる訳でもない。
結局、いつまでも勝浦でじっとしていても埒が明かないので、兎に角、熊野川の上流まで怪異の原因を探りに行く事になった。
……とは言え、夏の暑い時季の事だ。
京よりは幾分か過ごし易い……と言われても、エアコン完備の生活が普通だった望美達現代っ子にとっては、暑いものはどうやったって暑い。
今日だって、那智大社に近い場所で宿を確保したものの……山だということもあって少しは気温が低めだけれど、暑いことには変わりがない。
空がオレンジ色に染まり始めた頃。
望美は、とうとう我慢出来なくなって、那智の滝まで涼みに行こうと思い立って部屋を出た。
けれど……
「何で、こういう時に限って誰も見当たらないんだろ。」
ぶつぶつとぼやきながら、廊下を歩く。
「……っていうか、この暑いのに…みんな、どこ行ったのかなぁ。」
まだ日の高いうちに着いたからだろう。
皆、それぞれの出先から戻って来ていないようだった。
もしかすると、望美が部屋でゴロゴロしているうちに、涼しい場所へ行ってしまったのかもしれない。
「涼しい所に行くなら、誘ってくれてもいいのに…」
勝手に仲間達の行き先を想像して、勝手に文句をつける。
しかし、誰も見つからないとなると…一層、滝へ行きたい気分が募ってしまうもので…望美は、躍起になって誰か残っていないか…探し始めた。
一人で出掛ける…という選択肢も脳裏を過ぎったが、少し前に実践して朔からしこたま叱られて以来、必ず同行者を求める事にしていた。
望美とて、此処が自分の世界と違って、女の一人歩きが出来る様な安全な世の中でない…という事位は理解出来るようになっていた。
「あれ?」
廊下の角を曲がった望美の視界に、見慣れた姿が飛び込んできた。
この暑い中でも、一分の乱れもなく着込んだ着物。
何も、こんな所でまで被らなくてもいいだろう…と、望美は、頭から漆黒の外套を被った後ろ姿を見て苦笑を浮かべた。
「弁慶さん、どうしたんですか?こんな所で。」
パタパタ…と軽い足音を立てながら歩み寄り、望美は遠慮がちに声を掛けた。
書物を読み耽っていたらしい弁慶は、彼にしては珍しく……余程、読む事に集中していたのだろうか……声を聞いて初めて、望美が傍にいることに気付いた様だった。
「おや、望美さん。」
弁慶は視線を落としていた書物から顔を上げた。
気付かなかった事への謝罪を口にしながら、望美へと柔らかな視線を向ける。
到着してすぐ、部屋に籠ってしまった少女を心配していたが、体調を崩して…という理由でもなかったようだ。
望美の顔色を診ながらそんな風に考えて、弁慶は少女の疑問へ答を返す。
「気になる事があったので、少し調べものを…ね。」
穏やかに微笑んで、弁慶は手にしていた書物を閉じた。
「此処は、室内にいるより涼しいですからね。」
言われてみれば、確かに、此処は涼しい。
庇で蔭が出来ているし、時折吹き抜けてゆく風が、汗ばんだ肌を冷やしてくれる。
「あ~…私もここで涼んでいればよかった……」
悔しそうに唇を尖らせて呟く望美を見て、弁慶はくすくすと小さく笑った。
やはり、早々に部屋に籠ったのは、この暑さから逃れる為だったらしい。
「君こそ、どうかしたんですか?」
隣に座り込んだ望美へと、弁慶が問い掛ける。
問われて、弁慶の顔を見上げた望美は数度瞬きをした。
涼しい場所を見付けた事に満足して、此処に来た理由をすっかり忘れてしまったらしい。
えっと…と苦笑を浮かべ、望美が理由を述べる。
「那智の滝へ涼みに行こうと思って、付き合ってくれる人を探していたんです。」
「僕でよければ、ご一緒しましょうか?」
思いがけない申し出に、望美は目を瞬かせた。
「でも、調べものをしていたんじゃ……」
遠慮がちな望美の言葉を遮って、弁慶がにっこりと微笑む。
「大した事じゃないんですよ。
それに、こんな所に一人でいるよりも君と出掛ける方が、ずっと有意義な時間を過ごせそうですからね。」
「っ!?」
付け加えられた言葉に、思わず、望美は頬を染めた。
胸も高鳴って、一瞬緊張してしまうが……
――弁慶さんのペースに流されちゃダメ!
慌てて、望美は自分に言い聞かせる。
いつもの事だ…と。
特別な意味などない……彼にとっては、きっと、社交辞令の様なものなのだ。
自分にだけ、特別向けられているものじゃない。
そう……
勝手に気にしているのは、自分だけなのだから…と。
――弁慶さんが、私の事なんて気にしてる筈ないもん。
少し前、龍神温泉で朔に言った言葉を反芻する。
幾度か繰り返した運命の中で……まだはっきりと「恋」だとは言い切れないけれど、彼に――弁慶に惹かれているのは事実。
でも……
追い付きたくても、追い付く事が出来ない。
知りたいと思っても、何一つ教えてくれない。
手が届いたと思ったら、遠くへ行ってしまう。
ただ、いつも穏やかに微笑んで…優しい嘘で誤魔化されてしまうだけ……
だから……
「それじゃあ、一緒に行ってもらってもいいですか?」
いい機会かもしれないと思った。
一緒に出掛ける事で、弁慶の事が少しなりとも分かるかもしれない。
少しでも…彼の心へ近付く事が出来るかもしれない…
そんな風に思って、望美は弁慶へと問い掛ける。
当然、その願い事に、彼が否と答える筈もなく…
「ええ、勿論ですよ。」
穏やかな微笑みを浮かべて頷いた弁慶に、望美は嬉しそうな笑顔を見せた。
陽の傾き始めた空。
昼間の熱気を冷ます様に抜けてゆく風が、近くの木の葉を揺らす。
風に踊る自分の髪を押さえ、望美が、傍らを歩く弁慶へと笑顔を向けた。
返される微笑みに、頬を染め視線を外してしまった少女を可愛らしいと思う。
ほんの少し前の……あの龍神温泉での事が脳裏を過ぎって…弁慶は、胸の内で嘆息した。
二人の神子は、自分達の会話が板塀の向こう側にまで聞こえていた事を知らない。
何故、自分なのだろう…
少女が告げた想い人の名に、弁慶は再び溜息を吐いた。
――僕の読み違いならよかったのに……
気付いてはいた。
望美が向けてくる視線に、気付かない彼ではなかった。
だが、向けられる純粋な想いに応えられる筈などない。
たとえ、己の内に生まれた感情が、次第に…信頼という域を超えた特別なものへと変化していたとしても……
「弁慶さん、暑くないんですか?」
突然、思考を乱して掛けられた言葉に、弁慶は目を瞬かせた。
「え?」
問い返した弁慶へ首を傾げて見せた望美が、だって…と、彼の外套の端を掴む。
「これって真っ黒だし、全身覆ってるし……」
ああ…と、何を言っているのかに気付いて、弁慶は苦笑を浮かべる。
「そういえば、君は羽織を脱いで来たんですね。」
「はい。だって暑いですもん。」
悪戯を見付かった子供の様な表情で、望美は小さく肩を竦めた。
「確かに、暑いといえばそうかもしれませんね。」
「だったら、弁慶さんも脱いだらいいんですよ。」
無邪気な言葉。
確かに、暑ければ薄着になればいい。
しかし……
「でも、陽射し除けには丁度いいんですよ。」
本心を隠し、弁慶は告げる。
「それに、京の蒸し暑さに慣れてしまえば、熊野の暑さは…陽射しさえ遮る事が出来れば少しは、マシになりますからね。」
この色の薄い髪。
それを晒して歩ける様な場所は…そうはない。
そうでなくとも、この地は、彼を知る者も多いのだから……この髪の色を見れば、素性すら直ぐに知られてしまうだろう。
別に、何らかの弊害がある訳でもないのだろうが…自ら進んで晒すつもりもない。
「そういうものなんですか?」
「そういうものなんですよ。」
答えに満足ゆかないのだろうか…望美は、納得の出来ない顔で外套に目を遣る。
ぶつぶつと、でも見てるだけでも暑そう…と呟く望美。
ころころ変わる表情から一瞬たりとも目が離せない……不意に浮かんでくる感情を、弁慶は慌てて否定した。
そのような感情は、神子と八葉の間に必要ない……と。
「――そういえば、弁慶さんって熊野出身だって言ってましたよね?」
外套の事を追求するのは諦めたのだろう。
問い掛けて、望美が首を傾げる。
さらり…と、長い髪が肩から零れ落ちた。
好奇心に満ちた瞳に、思わず浮かぶのは苦笑。
京でも…この少女は、比叡にいた頃の事をしきりに聞きたがっていたな…と思い出して、弁慶は少女の要求へ応じる。
「生まれたのは熊野ですね。ただ、早いうちから比叡に預けられましたから…」
「でも、子供の頃とかは熊野にいたんでしょう?」
その表情は、問わずとも昔話を聞きたいと盛大に主張していた。
けれど……
お世辞にも良いとは言えない自分の過去を、わざわざ話そうなどとは到底思えない。
「またそのうちに話してあげますよ。
全て話してしまったら、君の興味が僕から離れてしまうでしょう?」
「またそうやってはぐらかす!」
さらりと流されて、望美は頬を膨らませた。
「おや。機嫌を損ねてしまったかな?」
「弁慶さんはずるいです。」
ぷい…とそっぽを向いてしまった望美に、弁慶は思わず小さく吹き出してしまう。
「ほら、余所見をしていると転んでしまいますよ。」
「私、そんなに鈍くありませんから!」
軽く弁慶を睨むと、望美は足を少し速めてしまった。
当然、並んで歩いていた二人の距離は、望美の上げてしまったスピードの分だけ離れてしまう。
やれやれ…と溜息を零しながら少し歩調を速め、弁慶は望美を追って再び隣に並んだ。
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