「縋憶」(石さに)
石さに再録本
過去に発行した(完売済み)のコピー本を加筆修正・再編集しています
『香守』『香惑ひ』『はつゆき』
名前あり創作女審神者注意
※既刊『残想』よりも後の時間軸のお話です。
【A5/52p/¥600】
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爽やかな朝を迎えた本丸の縁側に、千歳緑色の袴が衣擦れの音を微かに響かせる。
白い単衣に映える長い黒髪を心地よい風に遊ばせながら、この本丸の主である女性は、軒から見える青空を眩しそうに見上げた。
彼女の名は沙(さ)弥(や)。
少女と呼ばれる年齢はとうに過ぎ、一般的には仕事か家庭に落ち着きを見出し始める年代へと突入して久しい。
他人より少々長めに学生生活を送った後、祈祷などを生業としていた彼女だったが……今は、この本丸と呼ばれる場所で、審神者と呼ばれる者として日々を過ごしている。
普段は上に羽織っている千早や狩衣も、仕事を始めるには早い時間帯だからか、今は単に袴というラフな格好のままだ。
後頭部で、髪に結わえられた藤色の結紐が動きに合わせて揺れていた。
「今日もいい天気!」
寝不足のせいで取れない眠気を追い出すように、全身に朝日を浴びながら大きく伸びをする。厨の方から漂ってくるいい匂いに頬が緩んだ。
そのうち朝食の準備ができたと誰かが呼びに来るだろう。それまでに、身だしなみをきちんと整えておかなければいけない。
――今朝の食事当番は誰だっけ?
ぼんやりと、空腹を訴え始めたお腹に手を当てて考えていると……
「あるじさま。おはようございまーす!」
沙弥の姿を見つけた今剣が、元気よく駆け寄ってきた。
「おはよう、今剣。今日も、朝から元気だね」
「へへへー」
その無邪気な笑顔につられて笑みが浮かぶ。
「それで、今剣は何をしていたの?」
身を屈めて視線を合わせれば、今剣は「あっ!」と声を上げた。
「そうでした! これからみんなをおこしにいかないといけないんです」
朝食当番から頼まれたのだと胸を張る今剣。
その様子が可愛らしくて、くすくす、と沙弥は笑いを零す。
「そっか。じゃあ、行ってらっしゃい」
「はい!」
元気に走り去る今剣の背中を見送っていると、ふわぁと欠伸が零れた。
「だめだめ。ちゃんと起きなきゃ……」
目を覚ますため、沙弥は両掌で頬を叩いて大きく伸びをした。
「さて、と。今日も頑張りますか!」
* * *
「……それで、縁側から足を滑らせて庭に落ちてしまった……と?」
「はい……」
項垂れた肩に、さらりと髪が零れ落ちた。
肘の辺りに貼られた湿布。
脛と腕には派手な擦過傷。
石切丸は溜息を零した。
――思いもよらぬ怪我をしてくれる
日々、最初の印象からかけ離れていく主の様子に、石切丸は若干の戸惑いを覚えていた。
「今剣が血相を変えて呼びに来たから 何事かと思ったよ」
傷口に消毒薬が沁みて、沙弥は、ひゃっと小さく悲鳴を上げた。
今剣を見送り伸びをした直後、沙弥は縁側から庭に落ちた。
屈んだ姿勢から一気に頭を上げたことで、めまいを起こしたのだ。
走り去ろうとしていた今剣が気付いて、大慌てで呼んだのが石切丸。
審神者である沙弥の力によってここへ来てからというもの……石切丸は、何かと怪我の多い彼女の主治医になり始めていた。
「これで何度目だい?」
「……ごめんなさい」
「よそ見をして転んでは怪我をし、戸や柱や壁に激突しては瘤をつくり……」
「うぅ……」
「私が来てからでもかなりの回数、治療をしてきた気がするよ」
石切丸がこの本丸に来てから、それほど日が経ったわけではない。
指折り回数を数えられて、申し訳なさで沙弥はさらに身を縮めた。
「これまで、どれだけの怪我をしていたんだい」
「えーっと……」
こっそりと上目使いに石切丸の顔を盗み見ながら、沙弥は言い淀む。
確かに。
廊下で、部屋で、庭で、転んでは怪我をしていた。
誰にも見つからなければ、こっそりと自分で消毒して薬を塗る。誰かに見つかれば、呆れられながらも、その誰かの世話になる。
ずっと、そんな感じで過ごしていた。
「生傷が絶えないのは子供の頃からだったし」
「そういう問題ではないよ」
少し強い口調に驚いて沙弥が顔を上げれば、手を止めた石切丸の視線とぶつかった。
「傷跡が残ってしまったらどうするんだ」
――おとうさんみたい
父親というものを沙弥は知らないけれど、まるで娘を心配する父親のようだと思った。
「もう少し、落ち着いて行動しなさい」
「……はい」
口調は怒っているように聞こえるけれど、心配をされているのだというのが分かるから、沙弥はおとなしく頷いた。
「最初は、えらく落ち着きのあるしっかりした女性だと思ったのだけれど……」
「ッ!」
不意に傷口に指が触れて、沙弥は体を跳ねさせた。
その様子に、くすりと石切丸が笑う。
「確か……『ドジっ娘』と言うのだったかな?」
「……いじわる」
誰だ、そんな言葉を教えたのは……と、思い当たる犯人の顔がいくつか浮かんではくるが、傷の具合を確認するように石切丸の指が触れるたび、痛みに思考が霧散する。
「何にしろ、砂や棘は入っていないようでよかったよ」
傷は少し熱を持っていて、消毒薬も冷たいと思っていたけど……大柄な体躯からは想像つかないくらい繊細な指は、少し冷たかった。
触れるたびに、傷の発する熱が奪われてゆく気がするのは、病気平癒の神社に奉納されていたという神刀が持つ癒しの力の片鱗だろうか。
「化膿しないよう膏薬も塗っておこうか」
そう言って、取り出した容器から指先が薬を傷口へと塗ってゆく。
「ひゃっ!し、しみ……っ!」
「沁みるだろうね」
悲鳴を上げる沙弥の様子を見て、石切丸はくすくすと笑った。
――なんだかなぁ……
ふと、沙弥の胸を過っていったもの。
それは、寝不足の原因のひとつでもあった。
「……石切丸」
「なんだい?」
「ごめんね、手を煩わせて……」
「……主」
沙弥が零した言葉に、顔は上げず脛の傷へと薬を塗りながら石切丸が口を開いた。
「確かに。私は長く神刀として神社に祀られてきたからね。戦うということから縁遠かった」
――それなのに戦場へ引っ張り出してしまった
それは、いいことだったのだろうか。
望まないことを強いてはいないだろうか。
沙弥は、それをずっと考えていた。
モノに宿る魂。
それは、人間(ひと)の持つ心よりも強く純粋であることが多い。
当然、元の主への想いは良くも悪くも強い。
審神者である沙弥と、沙弥によって人の身を持った付喪神である刀剣男士たちは、歴史を変えようとする者たちと戦うのが任務だ。
敵の中には、彼らの元の主を助けるような歴史の改変をしようとしている者も在る。
沙弥の審神者としての力はかなり強いから、刀剣男士たちの魂を、望む望まないに関係なく呼び起こし戦いへと縛り付けることは容易い。
だからこそ余計に、罪悪感が沙弥の胸を締め付けるのだ。
そんな沙弥の思いに気付いているの否か。
「けれど……こちらの仕事の方が性には合っているのかもしれないね」
上げられた石切丸の顔には、優しい笑みが浮かべられていた。
「あ、あの……っ!」
「さあ、次は腕だよ」
沙弥の言葉を遮って有無を言わせず腕を取ると、石切丸は同じように薬を塗り始めた。
「……とはいうものの」
「なに?」
ちらりと向けられた瞳が少し悪戯っぽく笑っていて、沙弥は首を傾げる。
「こうやって、主の怪我の治療をすることはできても……」
石切丸の言わんとすることが分からない。
「主のドジっ娘は、私にも治せないだろうね」
「っ!?」
思いもよらぬ言葉に、沙弥は目を瞬かせた。
「もう少し怪我の回数を減らしてくれないと、心配で遠征にも行けないよ」
「ちょっと! 子供扱いしないでくれる!?」
思わず抗議の声を上げた沙弥に、石切丸は、はははと笑った。
――まったく……ん?
あれ?と沙弥は首を傾げた。
痛みと湿布や薬の匂いで今まで気付かなかったが、仄かな香の匂いが鼻を擽った気がしたのだ。
確認するように匂いを嗅いでいると、怪我へと包帯を巻いていた石切丸が顔を上げた。
「どうかしたのかい?」
途端に、ふわりと匂いが鼻に届いた。
――石切丸の?
「ううん。なんでもない」
香の匂いがしたなどと、わざわざ言うものでもないか……と、首を横に振る。
訝しげな石切丸へと曖昧に笑みを返し、沙弥は包帯が巻かれた足を隠すように、たくし上げていた袴を下ろした。
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